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【メモ1】「関ヶ原」を読むー戦国武将の手紙ー

「関ヶ原」を読むー戦国武将の手紙ー

外岡慎一郎・同成社

 アンダーラインとなるところはメモる人が添付したもの
 

はいめに:流れと辿り着く場所

天正18(1590) 小田原征伐・奥羽仕置→惣無事(天下統一)→対外戦争 が 戦中に秀吉没←最悪の事態←最初の課題:朝鮮撤兵 三成と加藤・福島らの間柄の崩壊:後方指揮と前線との齟齬・三成の小西に対する贔屓など←後日、関ヶ原戦場に至る文治・武闘の分化は、朝鮮戦争の際後方・前線の分配の延長線上という説(同説では 関ヶ原直前の対立は石田 対 徳川ではなく、本質上はこの、朝鮮戦争当時後方と前線の対立だと論ずる) →秀吉遺言:大老衆・奉行衆の集団指導制 まず遺言本文に五大老・五奉行の説無し、実際に遺言状や遺言覚書も異なる時期に複数あり、連署する人員も一定ではないし、はっきりとした5+5でもない →朝鮮撤兵が終わると、石田三成と徳川家康の確執、権力闘争が表面化に:関ヶ原合戦の端緒を秀吉の死に求める

慶長4(1599)閏三月 前田利家死去:豊臣政権内部のパワーバランスが崩す→通称七将夜襲事件→家康は、襲撃事件に不問・三成には助命と引き換え隠退を求める(本文:秀吉の死後、石田三成は家康による政権簒奪を懼れて、家康の言動を注視し、わずかてもその兆しがあれば遮る方策を施してきていた。しかし、かえって政権内部で孤立し、失脚したことで、家康主導の豊臣政権のかたちが整えられていくことは決定的となった。関ヶ原合戦まであと一年半である。) 関ヶ原前の“慶長時代”での三成と家康の関係は、多説があって、従来関ヶ原の経緯を解釈するに大きな点ではある。おおかた秀吉死後から対立する一方か、当初は協力関係で、七将夜襲まで所謂家康派はそもそもなく、強いて言えば三成自身も吉継とともにその家康派であり、ある時までは協力関係であったが、何かしらの心変わりでやがて対立する、という説。どっちにしろ共通なのは、七将の夜襲は別に家康が主導した計画でも無ければ、その七将も家康傘下では無いということだと思う。

 慶長4(1599)八月 上杉景勝(大老)越後に帰国・九月 前田利長(大老)と浅野長政(奉行)、家康暗殺の疑いで、前田は母芳春院を江戸へ人質に、浅野は甲斐に蟄居→大老x2は在国・奉行x2(石田・浅野)は失脚→三大老・三奉行、家康主導の色合いを強めていく(関ヶ原まであと1年)

慶長5(1600)三月 上杉景勝、神指城築城により謀反の疑い、四月一日付自重を促す書状を西笑承兌ー伊奈昭綱ルートで会津に→「直江状」*真偽は異説あり*→家康、会津出陣を決意(関ヶ原まであと半年)→六月十六日会津出陣(関ヶ原まであと3ヶ月)

慶長5(1600)七月    石田三成、豊臣政権に強行復帰→十七日毛利輝元、大坂西の丸に入る、家康の居留守が退去←二大老・四奉行体制(毛利輝元・宇喜多秀家、石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以/徳善院、秀頼を支える)、石田・毛利連合政権←大坂政変←中に「内府ちがいの条々」:増田・長束・前田玄以連署、会津出陣に従軍の諸大名などから人質を集める(本文:大坂政変に先立ち、石田三成の居城佐和山城に大谷吉継・安国寺恵瓊らが会し計略をめぐらしたこと、三成の兄正澄が近江愛知川に関を設けて、会津に出陣した家康を追って大坂・伏見を発つ大名たちを足止めにしたことが知られる。三成は遅くとも六月下旬には具体的作業に着手していた可能性が高い。関ヶ原合戦まで、長い秒読み態勢に入った。)

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